どんなことでも、特に心を込めて行なっていること、情熱を感じて行なっていることは、自分だけの意味があるのではなく、いろんなレベルでの社会的な意味があると考えます。
そしてその社会性や歴史性の意味を自覚するか、しないかは実は大きな違いなのではないかと考えています。
例えば、ある若者がどうしてもインドに行ってみたいと思っているとします。そして思っているだけではなく、家族の反対も押しのけて、実際にインドに一年のヨガ修行の旅に出たとします。
これは、ただ彼流の生き方探しかもしれない。
彼にとっては、自分がなんとか健康になりたいかもしれません。もっと本物のヨガとは何かを知りたいからかもしれません。あるいは、自分の人生の目的を見つける旅かもしれません。
その時点で、自分で気が付いていないかもしれないけれど、今彼がいる状況に納得いかないからかもしれない。健康という概念があまりに身体に重点を置きすぎだと考えているかもしれない。経済、成果だけが重要視されている社会、そして自分に対してのアンチテーゼかもしれない。
そして、きっと日本人としての責任感、人類の一員としての未来への試行錯誤に違いありません。
この若者が、実は僕自身でした。しかもこれが40年以上前の状況で、インドに行くということ自体がとても大変なことでした。
他にも、このような大きなターニングポイントがいつくかあって、今ここにきています。
はっきりしたターニングポイントでなくても、普段心を込めてやっていること、何気なく情熱を感じていることには、必ず表面的な理由だけではなく、もっと複雑な多層にわたる理由があるはず。
例えば、僕にとってのチネイザン。
気がついたら35年もチネイザンと付き合ってきた。
特にチネイザンを取得したいという気持ちもなく、それで人のためになりたいということも、ましてや仕事にするなどという気持ちは全くなく続いてきました。
これは燃えるような情熱というのではなく、振り返ってみたら続いていたなあという感じの情熱でしょう。当初は、半年以上も全く忘れていた時期さえある。
では、なぜ続いたのでしょうか?そしてチネイザンへの情熱は、少しずつ増してきているのはなぜでしょうか?
表面的な理由は、多くの人から頼まれたから、偶然にも教えたり、施術できるような環境に出会ったらからなど、比較的受動的な理由です。強い自分の意思で続いたとは思えない。
ところが、確実に人に役に立つことを経験したこと、チネイザンを通して貴重な出会いがあったこと、チネイザンを通して学ぶことが沢山あること、時間を重ねて行くとますます味わいが深くなることなども、続いてきた大きな理由です。
そして、まだまだ不完全なチネイザンだからこそ、進化できる、進化させたいと言う強い願いも湧き出てきたことも確か。
そして、少し俯瞰してみると。僕なりの社会参加、そして社会へのそして未来への提案になっていることにも気がついてきた。
ますますデジタル化する世の中、科学と医学が急激に進む中、激しく動く政治問題、ますます忙しく振り回される経済問題、いつも時間に追われてる新しい時代の中に生きる僕たち。
そこにゆっくりと手で触れる、身体を心と魂や社会も含めて統合的に考えるチネイザンは、現代という社会へ、そして未来への提案になっていると言うことに気がつき始めたのが、この10年ほどです。
すぐに効果を求めること、わかりやすい理由を求めること、方程式のように誰にでも効果のある技術を求めること。それ自体は意味のあることですが、チネイザンは、実は根本的にそこを拒否するものがあることに気がつき始めた。そんなに急がずに、ゆっくりとにかく、目の前の人に対して一生懸命携わってみよう。たとえ、その関係がその瞬間だけだとしても。
理由や公式ではなく、プロセス自体にも意味がある。身体は精密な機械ではなく、生き物だ。心や魂や生き方も歴史もそこには同居している。分かることよりも、もっと大切なことが起きている。そんなことを静かに語ってくれているのがチネイザンだと実感してきた。
ますます、人とのふれあいが希薄になり、時間に追われるようになり、誰にでもわかりやすい言葉で説明しようとしたり、効果を求めるようになりそうな現代社会に対して、アンチテーゼがある。
言葉にはならない、説明できない触れあいがある。すぐにわかりやすい効果が現れなくても自信をなくさない。時間と空間をシェアすること自体が、相手を、そして自分をより人間をして取り組んでいこうという意思と選択があること。暖かくてもいい、優しくてもいい、分からなくてもいい、怖くてもいいと言うこと。そして、人が潜在意識や潜在身体(これは僕の造語で、いつか説明します。)が繋がることで、きっと何か素晴らしいことが起きていくという、何か大きな希望と自信。
チネイザンという小さな行為だけれど、こんな大きな提案と智慧が、そこには隠されているようだ。ぜひ、一緒にこのジャーニーをしませんか?一人ではとても進めるような旅ではありません。