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「聴く」という言葉が好きだ。
太極拳でも、特に推手という二人で何か押し合っているように見える太極拳。
ここでは、力で推すとか引くとかではなく、身体全体で「聴く」ということが大切になる。
いわゆるフィーリング的な 感じるという言葉ではなく、聴くという言葉がぴったりする。
そこには、安易な判断や分析などは介入しない。

瞑想でも、「深く聴く」という瞑想法がある。とても技法は単純だけれど深さがあって、そしてポエティックな瞑想法で、僕はこの瞑想法が、最近になって特に気に入っている。
瞑想をしながら、とにかく何でも聞く、遠くの音や近くの音や自分の身体の中で起きている音や、全てを聞こうとする。その時に一つ一つ別々に聞く。何となく風の音ではなく、どの辺りでどの方向に向かう風の音か?1つか2つか?そして自分の反応を観察する。怖いのか、気持ちがいいのか、不安なのか。その分析や観察に特に反応はしない。

人間の、自分の耳の範囲の以上のものを全身で聴く。聞こえないものも聴こうとする。聴いている自分も聴く。普段は、何気無しにセレクトして聞いている。必要だと思える音は大きくはっきりと、必要ではないと思う音は、聞こえてきてもそれは無視されるようで認識に上がってこない。マイクで録音した場合と、その場で聴く場合の違いにも驚かされることがある。こうした判断も辞めてみて、ただ全てを聴いてみる。そのうちに全てが聞こえてくると同時に、全く何も聞こえてこない。そういう瞑想だ。

チネイザンは、内臓を聴く作業でもある。
決して例えば肝臓の言語が解るわけではない、でも、聴く。
肝臓だって、何かを訴えたり、感じたりしているに違いない。
自分のことを見たり聴いたりするのは、人間は得意ではないようだ。どうしても色眼鏡が強くなってしまう。
だから施術者は、安易な判断や分析はできるだけ避けて臓器を「聴く」。
意味がわからなくても聴いているうちに何かが伝わってくる。
この深く「聴く」ということができた時には、お互いが自然に深く繋がっているのが実感できる。
もちろん自分で自分の内臓の言葉を聞けるのは素晴らしい。
けれども、そもそも人間は他の人があって聴いたり話しかけたりするものだ。
チネイザンでは、他の人の手を通して内臓の声を聞いてもらう。
そうすると思いがけないことが分かることがある。
この分かるということが、頭で分かるとか、言語で分かるというものでないところが、素晴らしい。
これを日本語ででも英語ででもで、説明しようとするとなかなか違うものになってしまう。
なかなか歯がゆい。それでも伝えようと、試行錯誤する。
きっと本当の意味の詩人だけが、それを表現できるのかもしれない。
チネイザンのプラクティショナーも、クライアントも、そういう意味でのアーティストだったり、詩人だったりする瞬間がある。
人間は素晴らしい、と感じてしまったりする瞬間だ。

チネイザンを行なっていたり、受けている時の醍醐味の一つだ。
この醍醐味が、表面的な効果にすぐに現れる時もある。
全く、現れない時もある。
現れなくても、無意味では全くない、そう信じたい。

身体の不都合のほとんどは、表面に出る前にどこかで動き始めている。
表面に出る時には、必ず聞いてあげたい。表面に出る前に、チネイザンの瀬術者は聞き出したい。

普段、僕たちは、生活の中で、忙しく表面的な効率に焦っている。
チネイザンや瞑想は、普段の生活や時間に、静かに、優しく、でも実は厳しく何かを突き刺してくれている。そう実感することが儘ある。

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